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2006/09/29

弥次喜多の背景-『東海道中膝栗毛』について

 五年ほど前に書いた小論ですが、最近質問を受けました。見やすくするためにここに掲載します。


弥次喜多の背景
平成13年 9月「弥次喜多の背景」『国文学―解釈と鑑賞―』(至文堂)2001 vol.66.9 p129-134 (1日)に掲載したものに多少手を加えました(2006 09 29)。

初めて出会う“ヤジキタ“
 初めて出会う“ヤジキタ”はどんな形だろうか。僕の場合は言葉からだったようだ。“ヤジキタ”という言葉についての説明を両親か身の回りの人たちがしてくれた。その上で子供向きに書き直した『東海道中膝栗毛』というか、『やじきた珍道中』を買ってもらった。昭和38年の加藤大介と小林桂樹の映画も見たかもしれない。東横劇場で歌舞伎のヤジキタを見た記憶もある。もちろん漫画もあった。
 昭和の一時期、戦後に始まる新しいメディアの時代に、コンテンツを提供したのは、戦前の芸能だった。落語・講談・浪花節という寄席芸能を中心に、邦楽、芝居を含めて多くの伝統芸能がラジオを媒体に全国に広まった。ヤジキタが寄席芸能の世界に近かったことは、棚橋正博の『十返舎一九』(日本の作家35 新典社)に江戸時代にさかのぼっての指摘があるが、寄席芸人の時代だった日本のラジオデイズは江戸芸能の下流にあったといえる。こうした文化背景を持った時代であったから、“ヤジキタ”は容易に子供の耳に入ってきた。(講談版は昭和29年『講談全集』にも所収、昭和51年『講談名作文庫』にも収録されている。)
“ヤジキタ”は熟語に近い語彙となっている。用例は挙がっていないが『日本国語大辞典』では「弥次喜多」で立項され、「(十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の主人公、弥次郎兵衛・喜多八が滑稽ずくめの東海道の旅をしたところからいう)」として「愉快な旅行、気軽な漫遊旅行。」「滑稽をしでかす二人連れ。おどけ者二人のとり合わせ。好一対のひょうきん者」と意味が羅列してある。作品を離れて登場人物の属性が一般語彙に展開しているのである。
 今の子供に“ヤジキタ”がどの程度普及しているか、確認してはいないが、媒体の性格変化を考えると減少していることは確実と思われる。しかしながら、今日でも確実に子供の語彙として、また読み物として、“ヤジキタ”は存在している。
 古典の児童読み物化において、江戸時代作品として最も取り上げられるのは『東海道中膝栗毛』である。児童向けの文学叢書は、日本古典のリライトに限らず新規出版がしにくい状態であるようだが、現在入手可能なこの種の叢書として、講談社から1990年の初頭に刊行された「少年少女古典文学館」がある。
 この叢書は、「現代の有力文筆家たちが、いまの言葉でつづる日本の古典です」というねらいによって、橋本治、氷室冴子、干刈あがた、嵐山光三郎、清水義範、ねじめ正一といった比較的新しい作家を含んだ陣容によって執筆された。
 選ばれた作品は、『古事記』から始まり瀬戸内寂聴の『源氏物語』を経て、江戸時代では西鶴・近松のアンソロジーと『雨月物語』『里見八犬伝』『四谷怪談』『おくのほそ道』などが取り上げられ、全体で26冊になっている。
 他の児童向き叢書と比較して、扱いにくいため取り上げることが少なかった『おくのほそ道』がとりあげられるなど、新しい試みも行われているが、基本的には日本文学の古典としてこれまで取り上げられている作品を重要視している。それは「中学高校の授業でとりあげるおもな作品は、ほとんどカバーしています。」という編集方針によるもので、学校図書館を狙うこの手の叢書の営業戦略がうかがえる。本書の対象は中学生で、かなり詳しい注釈と図版が掲載され、「古典豆百科」と編集者が謳うように、小学校高学年から中学にかけての読者が興味を持ちつつ知識を増加させられる配慮がなされている。
 さて、この叢書における『東海道中膝栗毛』の担当者は村松友視であり、挿絵は南伸坊が描いている。これまでの児童向け作品には無かった「発端」部分がきちんと入っていることも重要だろう。そのことによっても分かるように、従来の児童向けに削除されていた弥次郎兵衛、喜多八の色欲に関する描写も、適度に省略は行われているが、削除はされていない。

“ヤジキタ”の属性
 児童向きの作品として『東海道中膝栗毛』が人気を保持しているのは登場人物である弥次郎兵衛、喜多八の二人の性格の魅力である。
 村松友視はこのキャラクターを「精力的でおもしろおかしい旅をつづける、弥次さん喜多さん」ととらえ、そしてそれはベストセラーを提供しつづける十返舎一九の驚嘆すべきエネルギーに見合うものだと位置付け、その中身を、

登場人物の弥次さん喜多さんは、年寄りや子どもや女をだまそうとして、かえってとんだめにあうという顛末を、性懲りもなくつづけて旅をする。

と説明する。
 中村幸彦はその後の十返舎一九研究の方向付けをしたとも言える『十返舎一九論』(中村幸彦著作集第六巻)で、

しかし、この二人は天才の苦心経営、創造したものではなく、前述のごとく、学才ともに乏しい二流作家が、生活のために苦し紛れに、ひねり出した人物であった。

 と言い、

それも天下の美貌でもあることか、一人はデクデクと太って色が黒く、鼻の開いたあばたに鬚面の中年男、今一人は背が低くて、どんぐり眼に獅子鼻、役者の過去を持つとは不思議な程の二十歳過ぎの男にすぎない。それでも人格高邁かというに、食い気と色気、そして金銭にもしみったれた欲望を、いたるところで発揮し、友人を裏切ることも平気でする。見え坊のくせに恥知らずである。大風に見せるが、実は小心者である。となると悪人でこそあれ、道徳的などとはどうしてもいえない。それでは悪賢い程、知恵でもまわるかと見れば、欲望に走れば、少しのいたずららしい計画は作るものの、計画性にはすこぶる欠ける。急いで実行にうつして、先の見通しはまったくない。何しろすぐに腹を立てて、すぐにしょげる。第一胆力がなくて、からりきみばかりする。少し薄馬鹿とも見える。現にところどころで馬鹿と評されている。第一健忘症も甚だしい。この点では悪人という資格にも乏しい程である。

 江戸時代が後世に誇るキャラクターをこのように分析している。小悪党的と見るか精力的と見るかの違いがあるが、いわば理想的登場人物にことごとく反する要素を持っていることが特徴として共通する。これは多くの見解に共通するだろう。反英雄(注1)なのである。
 しかし、『東海道中膝栗毛』はピカレスクではない。弥次喜多の悪事はそれ相応に罰せられているし、本人たちがその行為の評価を心得ている。三編下、日坂のあたりで盲人をだますエピソードがその一例になるだろう。

二人連れの盲人の一人がもう一人を背負って川を渡ろうとしているところに、弥次喜多は盲人の目が見えないのにつけこんで連れのふりをして一人の盲人の背中に乗ってしまう。弥次は成功するが、喜多八は見あらわされて川に放り込まれる。その先の掛川で、二人の盲人が酒を飲んでいるのを見かけ、その酒を掠め取る。これも露見してとぼけようとするが、酒代を払わされた上、盲人たちからは泥棒と罵られる。

 狂言『どぶかっちり』をはめ込んだ趣向として大変有名なシーンだが、狂言では弥次喜多に相当する「通りの者」が二人の盲人をだまして川も渡るし酒も飲む。その上報いを受けることも無く、だまされた盲人同士が争って終わる設定である。弥次喜多の場合には、どちらの場合でも報いを受けている。狂言よりは倫理性が高くなっているのである。
 この段の終わり方は

北八「ヱヽいまいましい。けふはとんだ間がわるい。銭を出して酒をのみながら、へこまされたがうまらねへ」弥二「ハヽヽヽヽヽ、おれよりよつぽど、ちゑのねへ男だ
することもなすこともみなあしくぼやちやにしられたる人のしがなさ
斯興じ打わらひつゝ、やがて秋葉三尺坊へのわかれ道にいたり、

 と、笑いとともに終わるのである。これはこの段だけではなく、『東海道中膝栗毛』の大きな特徴である。ここには少しの反省もある。しかし主人公たちが、持続すること、拘泥することは意図的に避けられている。六編の上では淀川の夜船で用足しに上がった二人が、乗る船を間違えて再び大坂にもどってしまう設定がなされている。朝大坂についても間違いに気づかない二人は、人の荷物を自分の荷物だと思い込み持ち主から泥棒だと言われる。そして間違いだと分かっても

ハヽアきこへたことがあるわいの。なるほどあまりかしこうも見へんわろたちじやさかい、人のもの、手まへるほどのはたらきは、ありゃせんわい

 と悪事もできない人柄と見抜かれた上、多少馬鹿にされるが、弥次喜多はそれに腹を立てるわけでもない。そして、自分たちとわかれて京に上ってしまった荷物についての不安も、

たかゞ包は手めへとおれがきがへばかりだ。うつちやつてしまへ。そこらはゑどつ子ダわ。

 という弥次さんの強がりで解消してしまう。流動性の高い旅という状況を利用したこだわりの無さの表現である。これが弥次喜多を一見いさぎよく読者に感じさせるのである。

一九と弥次喜多

 棚橋が前掲書で強く繰り返していたことの一つに、十返舎一九の実像と滑稽な作中人物との混同や、滑稽本作者であったことから発生する一九伝説の虚構性を排除すべきことだった(注2)。一九の怪しげな伝記、花火仕掛けの葬式や書割の家財道具など、辞世にしても疑いを持つ向きはあるようだ。伝記としての意味はなくとも、伝説としての面白さは十分にあろう。一九が自分を作中に書き込んでいることを考えると、また、そうした方法が一九に限らず江戸戯作にはしばしばとられていたことを考えると、伝記の虚構・作為について考えることに強い興味を感じるのだが、一九と『東海道中膝栗毛』との伝記的なかかわりとして注目して置きたいのは出版に関わる問題である。
 周知の通り、『東海道中膝栗毛』は文化四年三月に江戸地本として始めて、上方での類板防止のために割印帳に登録された。江戸地本、つまり江戸の地方出版物が地方の枠を超えた広がりを持ち始めたことを意味している。そして、これを行った一九は翌年から本屋会所の書役となり、駿河屋藤兵衛とも名乗る。書肆としての駿河屋の名跡を軽々に断じてはいけないが、古く駿河屋にはまず蔦屋との関係が想定されている仲之町の引手茶屋、駿河屋市右衛門がいる。鈴木俊幸の『蔦屋重三郎』(近世文学研究叢書9 和泉書院)に『烟花清談』の著者として擬せられている人物であり、出版活動とのかかわりが想定されている。次は駿河屋重五郎で、朽木昌綱の『弄銭奇鑑』の版元である。蔦屋は寛政二年に朽木の蔵銭目録である『彩雲堂蔵泉目録』(注3)を出しているが、鈴木は前掲書でこのあたりの問題に、蔦屋の書物問屋としての積極的姿勢を見ている。朽木という特殊な著者との関係を加えて考えると、駿河屋と蔦屋の関係に新たな展開があるかも知れない。
 一九と出板の関係は、そもそも蔦屋から出発する。そして、駿河屋を名乗ることが、生地による偶然だけではないならば、もう一度十分な検討が必要になるだろう。

おわりに

富貴自在冥加あれとや、営(いとなみ)たてし門の松風、琴に通ふ春の日の麗さ、げにや大道は髪のごとしと、毛すじ程もゆるがぬ御代のためしには、鳥が鳴吾妻錦絵に、鎧武者の美名を残し、弓も木太刀も額にして、千早振神の広前に、おさまれる豊津国のいさほしは、尭舜のいにしへも延喜のむかしも、目撃(まのあたり)見る心地になん。いざや此とき、国/\の名山勝地をも巡見して、月代にぬる聖代の御徳を薬鑵頭の茶呑ばなしに、貯へんものをと、玉くしげふたりの友どちいざなひつれて

『東海道中膝栗毛』の本当に始まりは上の記述である。常套とはいえ、江戸時代への賛美で始まる。後に「発端」が付け加わり、弥次喜多が旅に出る理由が作られたが、最初はそのようなものは無かった。この部分にあるのは、当代への信頼である。この泰平の状態が継続するという安心が、まず基本にはある。たとえ虚構であったとしても、この安心感を具現すれば、荷物をなくしても心配なく旅を続けられるのではなかろうか。

注1
いまや、好色で粗忽で臆病で、酒好きの食いしん坊の見栄坊で、猫ババ精神が汪溢しているくせに正直で、他愛もない法螺を吹くが腸に毒のない、弥次北という人間像は、江戸時代の人びとの中には、恰もファルスタッフやドン・キホーテのように、江戸っ子なるものの一つの典型として、血肉のあるもののごとく存在するようになった。いや、江戸時代ばかりではない、一世紀半後の今日も、劇に映画に弥次郎兵衛、北八は登場する。たとえ、「膝栗毛」をよまずとも、弥次北と言ってわからない日本人はほとんどないと言ってようくらいである。
 この記述は、昭和34年に平凡社から刊行された世界名作全集41に収められたもので、この巻には『雨月物語』『東海道中膝栗毛』『春色梅暦』が収録された。この叢書はいわゆる名作全集として一斉を風靡したシリーズで、翻訳小説から日本近代小説の本文まで収められており、戦後の読書人形成に大きな影響力をもった。日本古典文学としては、『古事記』『今昔物語』(巻36)『源氏物語』(37・38)『平家物語』(39)『西鶴名作集・近松名作集』(40)が収められている。それぞれ、『源氏物語』は船橋聖一郎が、『平家物語』は尾崎士郎が『西鶴・近松名作集』は丹羽文雄と井上友一郎が担当しているように、作家が口語訳を行っている。『膝栗毛』の巻については、田岡嶺雲の甥で直木賞作家の田岡典夫と金子光晴夫人の森三千代が担当し、左に引用した解説は田岡が書いている。いずれも早稲田文学系の作家である。
 なお、この中に出てくるドン・キホーテとの比較であるが、ドン・キホーテにも贋作があったことが『贋作ドン・キホーテ』(中公新書・岩根圀和著)に詳しい。単なる符号としてではなく、彼我の出版・読書事情と併せて考えるべき現象と思う。
 また、小池正胤は『現代語訳日本の古典21 東海道中膝栗毛』(1980)で
今日の清潔な読者ことに女性には時として耐えられない嫌悪感を与え、同時に作品自体を別紙させることにもなった。これがこの作品の無思想を指摘する理由のひとつともなっている。
しかし、この底が割れても一向頓着せずに狂歌を詠んで吹き飛ばしてしまう一種のバイタリテイは(以下略)
と、弥次喜多の卑俗性を取り上げつつ肯定すべき面を見ている点、先の村松の意見と共通する。
注2
 松田修は『十返舎一九 東海道中膝栗毛』(日本の旅人10 淡交社 昭和48年)で
弥次郎兵衛喜多八は一九の作家的存在が紡ぎ出した、トロンプ・ルイュ(まやかし)なのである。作家と作中人物、わけて弥次郎兵衛との間にかなり濃密な共通関係(パルティパシォン)が成立している。
としている。
注3
 『彩雲堂蔵泉目録』には別摺があり、そちらでは蔦屋に替わり松本善兵衛が版元に入っている。造本は松本が参加した方が念入りで、表紙も雲母摺りである。


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