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2008/01/05

『神聖喜劇』のつながりで、『権利のための闘争』(イェーリング)を読みました。

『権利のための闘争』イェーリング 村上淳一訳 岩波文庫 ISBN4-00-340131-X 初版1982.10.18 38刷2007.6.5
 『神聖喜劇』が依拠する書物として読んで見たのだが、コンプライアンスの古典的根拠として読めてしまった。今のコンプライアンスは経済活動に引きずられたグローバリズムの中で、顔の見えない活動に、安心を与える手立てだと思う。交換に関わる信用は、狭い世界では作り手と知り合うことで支えられていたが、少し広がるとブランドが信用を担い、さらに拡散して法的な規制が信用を支える。規制内容を明示し、生産過程を含めた規制の履行過程を公開することで信用が確認できる。秘匿やごまかしは、明らかになれば信用を崩壊させる。
規制による信頼は、供給者による遵守のみを前提とすると、一方的な関係となる。前提が崩れれば制度全体が崩壊してしまう。生産関係だけでなく、社会構造全体が危機に瀕する。そこで必要になるのは、公開された規制に反するものを告発する仕組みである。そうすれば、関係が双方向になる。
『蜂の寓話』に代表されたような、近代的個人の自由な欲望追及を認める社会では、その上で規制を遵守するために、違反の発見と違反の抑制手段の確保が必要で、個々人の規制熟知と告発促進が必要になる。それは、最大限の利益を追求する側には、不都合となる。そこに、すくなくとも表向きは告発・指摘を禁止しない形をとりながら、実際には抑制するという両義的な態度が採用される。
『神聖喜劇』にある旧日本軍の妙な法治主義にはこの両義性がある。主人公東堂二等兵の懸念であるブルジョワ法治主義以前の体制としての軍の体制は、統帥権という血縁共同体的理念を基とした特別権力関係を基盤に成り立っていた。東堂二等兵がイェーリングの思想によって権利=法の主張を行いながらも、ぬぐえない不安を抱いていたのはこの部分があったからだ。
日本軍の不合理性に無意識の父性を見たのは河合隼雄だ。残虐行為の根底にもこれがあった。『神聖喜劇』で残虐を代表する大前田軍曹は、時にブルジョワ合理性以前の存在として東堂二等兵を脅かす。それは統帥権の持つ父権的性格に由来しそうだ。
東堂二等兵の精神の中に活きているものとして、士族に継承された精神環境があった。これは新渡戸稲造が『葉隠』を用いて明治体制向けに修正した“武士道”とは異なる士道である。『神聖喜劇』の中には、繰り返し武士の精神が出てくるにも関わらず、新渡戸・『葉隠』的なものへの言及が抑制されている。東堂の士道は家を中心とした高い自立性をもった精神構造である。この精神構造は、馬琴などに見られる形であって、明治以降の“武士道”より古層にあったものだ。
『権利のための闘争』の村上淳一の解説によれば、ドイツの権利=法の意識は、「君主が一定の領域について統一的秩序形成の主導権を握りながらも自己の意思を直ちに普遍的な法規範として強制するだけの力をもたず、家長たちの実力によって基礎付けられ、かれらの裁判共同体によって承認されたもろもろの具体的機能の総和を正しい法秩序の主要部分と考えるしかなかった時代」に形成され、絶対主義の時代に入っても、その部分は、伝統的な意識として保持された。それが近代国家に移行する際には、国家が個人の権利を保証し、個人は権利を正しく行使する義務を負うものとする考えに統合されていったとする。
この過程は日本の“武士道”の展開に似る。中世の武装自立する集団の論理がより大きな共同体の内部論理に変化しながら起源的性格を保持する点は同一である。西周等、明治新政府高官が、イェーリング説の移入に働くのもこの類同性によるかも知れない。それは東堂二等兵の背景にも通じている。
 イェーリングは『ヴェニスの商人』のシャイロックとアントーニオの契約について、ポーシャのやり方、つまり「血は一滴たりとも」という判決は、証文の有効性を裁判所が認めた上、判決、具体的法適用が言い渡されているにも関わらず、執行を不可能にする条件を付加したやり方は、不法だと見る。これは支払い場所が明記されていないという理由で、債務者が潜水夫なら海中で、屋根葺き職人なら塔のてっぺんで受け取れというのと同じだというのである。これに対して19世紀の間にも数多くの反論がなされたようだ。さらにそれに、イェーリングは反論している。
もともと裁判官が偽者なのだから、裁判の有効性は疑わしい。でも、誰かが気づいて裁判を無効にしない限り、この裁判は有効なのである。また、この契約が公序良俗に反するなら、判決段階で契約=証文の破棄がおこなわれるべきで、判決が出た時点でこの疑義は消える。ポーシャの判決には二つばかり気になることがある。一つは「クリスト教徒の血を一滴でも流したなら」(福田恆存訳 新潮文庫P117)シャイロックの財産を没収するというもの。もう一つは、シャイロックが訴えを取り下げても「ヴェニスは法律により、かく規定する。ヴェニス市民に非ざる者にして、市民の生命に危害を加えんともくろみしこと明白になりたる場合は」(同書 P119)財産を没収しヴェニスの国庫と被害者で折半するという規定である。いずれもキリスト教徒と他者、ヴェニス市民と他者、つまり、内外を分ける役割を持っている。「ユダヤ人に必要なのはただ正義だけだ。」(P117)とシャイロックが主張するのは、外に通じる普遍的な正義である。
『ヴェニスの商人の資本主義』(岩井克人 筑摩書房 1985.1.10 )では、貨幣のアナロジーとして劇全体を見ている。たとえば、シャイロックの娘、ジェシカは、退蔵される貨幣=箱入り娘からロレンゾーの妻となり、子=利潤を生むものとなる。また、ヴェニスの若者達を例とすると、彼らは、裁判が解決し、それぞれが配偶者を得ることで、同胞団的紐帯から抜け出て、それぞれの結婚指輪を無くなさいことだけを心配すれば良い境遇になる。これは血縁共同体の中でアントニーが不定形の不安を抱え、序幕で「まったく訳が分からない、どうしてこうも気がめいるのか。」と登場するのと対応する。貨幣による人間関係は血縁共同体の持っていた不定形の部分を単純化し、「指輪をなくさない」事に集約した結果、若者たちの不安解消となったと見るのである。そしてこの芝居の大団円はポーシャの住むベルモントでありヴェニスではない。ヴェニスの地縁的共同体を脱しているのだ。
ポーシャによる怪しげな判決は、少し普遍性を帯びてきた経済関係の方法を、旧共同体の理念で変形し、旧共同体を一時的に守ったものに見えてくる。旧共同体の美徳を守るためのトリックともいえる。しかし、有効な判決なのである。東堂二等兵が抱いた、軍法の持ったブルジョワ法治以前性への怖れとも対応するのではないだろうか。統帥権の名のもとに、あっという間に合理的な法治制度が捻じ曲がる方法である。そして、その局所的な合理性ゆえ、歪曲部分は見えにくく、反論も不能になる。
ブルドック・ソースの買収劇や村上ファンドのインサイダー疑惑、ホリエモンの事件など、時には拍手喝采して見ているのだが、案外これがポーシャの判決だった。なんてことにならないのだろうか。新年早々、随分余計なことを考えてしまった。

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