小千谷の文人
今月の雑誌『歴路』への投稿は鈴木牧之についてにしました。今度の地震で彼がめぐった秋山などはどうなったのだろうとか、吊り上げられているあの牛は、『八犬伝』で小文吾が見たあの闘牛の牛達の後裔だなとか、いろいろなことを考えながら地震報道に見入っています。
小千谷の文人
越後塩沢に一人の文人が居た。鈴木牧之という。この家は越後縮の仲買と質屋を営んでいた豪家であった。小千谷には縮商いで豊かになった家も多く、江戸時代の後半には文化的に進んだ土地になっていた。そんな中で、牧之は地方俳人として名を広めていた。ただ、この人には「名聞」を求める気持ちがあったようだ。彼に対するこの評価は、長く交流を保った曲亭馬琴が、他の友人宛てた書簡の中で、牧之を評して書いているのだが、「名聞」を虚栄心のように受け取ってしまうとすこし違う。確かに人に見せずに善行を積む陰徳に比べれば、一段低い美徳であるが、行いを人に宣伝するのは、自分のためだけとは限らないのである。牧之の行動を見てみると、自分を有名にしたいというより、広くは北越の土地を世に出したいという「お国自慢」的な意向が強い。さらに、自分でも言っているが、名を後世に残したいのである。この場合も自分のためではなくて、鈴木家のためと見たほうが良いだろう。
俳諧で有名になったのは、浦佐毘沙門堂に俳句の額を納める発起人になったことによる。この額に載せる俳句を各地から募ったのである。そしてその句の評を各地の有名な俳人十人に依頼した。それは大きな催しであった。もちろん、自分の句も入っているが、父親の句や周辺の人々の句も入っている。土地の文事を掲揚することに目的があったのである。
俳諧でのこの活動で、牧之は一つの限界を感じたようだ。それは俳諧の活動では、越後の一隅でどんなに頑張っても、全国的な評価は受けられないという現実である。
牧之の戦略が「名聞」の側にあったとすると、その次の選択は当を得ていた。彼は江戸の戯作者に近づこうとしたのである。どちらかというと、出版界に強い人達にである。結局、コンタクトしたのは山東京伝だった。ここに、後に『北越雪譜』として大成する雪国越後の自然と風俗を中心にした地誌の原稿と絵を持ち込んだのである。
京伝とその側に居た曲亭馬琴などは、この時期新しい出版界の状況に対応すべく努力を重ねていた。新しい小説のスタイルである江戸読本といわれるジャンルも、まだ形が定まっていないし、これから地方に伸びる可能性は見えては来ているが、江戸を中心とした読者しか捕まえていない出版にとっても、地方の裕福な文人からの出版希望は、逃すには惜しいし、さりとて簡単には受けられない状況だった。最初には京伝が、ついでは馬琴が、牧之の企画を宙ぶらりんにしてしまう。
自費出版の形、つまり入銀をすれば出版は可能だが、それは牧之の嫌うところだった。京伝はそれで匙を投げたようだが、馬琴はそれでも出版にこだわって長期戦略を立てた。まず馬琴の著作の中に牧之の作品や名前を使って有名にして、それから出版させるという作戦である。これはとても時間がかかった。そこに京伝の弟、京山が登場した。彼が文章を書いて、牧之の絵と下書きの文章を生かして出版しようというのである。時期が良かったせいもあって、この作戦が巧を奏した。原稿持込から三十年以上の月日が流れたが、『北越雪譜』は世に出たのである。
この書物の人気は江戸時代よりも近代の方が高かった。精緻な雪の結晶図は江戸時代の観察眼の代表となって中谷宇吉郎の『雪』などに紹介され、科学する心の源となったのである。
そのふるさとが中越地震に見舞われた。早い復興を心から祈りたい。
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