2004/11/14

小千谷の文人

 今月の雑誌『歴路』への投稿は鈴木牧之についてにしました。今度の地震で彼がめぐった秋山などはどうなったのだろうとか、吊り上げられているあの牛は、『八犬伝』で小文吾が見たあの闘牛の牛達の後裔だなとか、いろいろなことを考えながら地震報道に見入っています。

小千谷の文人
 越後塩沢に一人の文人が居た。鈴木牧之という。この家は越後縮の仲買と質屋を営んでいた豪家であった。小千谷には縮商いで豊かになった家も多く、江戸時代の後半には文化的に進んだ土地になっていた。そんな中で、牧之は地方俳人として名を広めていた。ただ、この人には「名聞」を求める気持ちがあったようだ。彼に対するこの評価は、長く交流を保った曲亭馬琴が、他の友人宛てた書簡の中で、牧之を評して書いているのだが、「名聞」を虚栄心のように受け取ってしまうとすこし違う。確かに人に見せずに善行を積む陰徳に比べれば、一段低い美徳であるが、行いを人に宣伝するのは、自分のためだけとは限らないのである。牧之の行動を見てみると、自分を有名にしたいというより、広くは北越の土地を世に出したいという「お国自慢」的な意向が強い。さらに、自分でも言っているが、名を後世に残したいのである。この場合も自分のためではなくて、鈴木家のためと見たほうが良いだろう。
 俳諧で有名になったのは、浦佐毘沙門堂に俳句の額を納める発起人になったことによる。この額に載せる俳句を各地から募ったのである。そしてその句の評を各地の有名な俳人十人に依頼した。それは大きな催しであった。もちろん、自分の句も入っているが、父親の句や周辺の人々の句も入っている。土地の文事を掲揚することに目的があったのである。
 俳諧でのこの活動で、牧之は一つの限界を感じたようだ。それは俳諧の活動では、越後の一隅でどんなに頑張っても、全国的な評価は受けられないという現実である。
牧之の戦略が「名聞」の側にあったとすると、その次の選択は当を得ていた。彼は江戸の戯作者に近づこうとしたのである。どちらかというと、出版界に強い人達にである。結局、コンタクトしたのは山東京伝だった。ここに、後に『北越雪譜』として大成する雪国越後の自然と風俗を中心にした地誌の原稿と絵を持ち込んだのである。
京伝とその側に居た曲亭馬琴などは、この時期新しい出版界の状況に対応すべく努力を重ねていた。新しい小説のスタイルである江戸読本といわれるジャンルも、まだ形が定まっていないし、これから地方に伸びる可能性は見えては来ているが、江戸を中心とした読者しか捕まえていない出版にとっても、地方の裕福な文人からの出版希望は、逃すには惜しいし、さりとて簡単には受けられない状況だった。最初には京伝が、ついでは馬琴が、牧之の企画を宙ぶらりんにしてしまう。
自費出版の形、つまり入銀をすれば出版は可能だが、それは牧之の嫌うところだった。京伝はそれで匙を投げたようだが、馬琴はそれでも出版にこだわって長期戦略を立てた。まず馬琴の著作の中に牧之の作品や名前を使って有名にして、それから出版させるという作戦である。これはとても時間がかかった。そこに京伝の弟、京山が登場した。彼が文章を書いて、牧之の絵と下書きの文章を生かして出版しようというのである。時期が良かったせいもあって、この作戦が巧を奏した。原稿持込から三十年以上の月日が流れたが、『北越雪譜』は世に出たのである。
この書物の人気は江戸時代よりも近代の方が高かった。精緻な雪の結晶図は江戸時代の観察眼の代表となって中谷宇吉郎の『雪』などに紹介され、科学する心の源となったのである。
そのふるさとが中越地震に見舞われた。早い復興を心から祈りたい。

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2004/10/05

武士道の不満

『歴路』という俳句雑誌に連載をしています。「文学大路」というタイトルで、もう随分書いてしまいました。向田貴子さんが主宰する五千石俳句研究会の俳句誌です。こちらに、日本文学の豆知識みたいなものを書かないかとお誘いをうけ、ずうずうしく書いています。
 向田さんのお許しもうけまして、blogにも掲載することにしました。そのままではつまりませんから、少しいい訳めいた物を加えることにしました。

武士道の不満
 江戸の文学というと、どうしても武士道の話が出てくる。新渡戸稲造が『武士道』を書たのが、今日の武士道概念を定着させたきっかけだろう。この書物はアメリカで書かれ、アメリカ文化に向けて、日本文化のあり方を説明したものであった。
 新渡戸の『武士道』(1899)は幕末・明治の武士道であり、それを対外的に説明する意図をもって書いているのだから、そのまま江戸時代以前の武士の意識に当てはめてはいけない。新渡戸の武士道は、当時の思想、十九世紀から二十世紀にかけての西欧思想によって裏打ちされ、ヨーロッパの騎士道に対応する日本思想のバックボーンとして外国に提出したものなのだ。モラルの基盤として、宗教を持たない日本文化に対する疑問に対して、新渡戸は日本は倫理の基盤に武士道があると答え、その例を提示し説明しているのである。
 この新渡戸の武士道より前に、北村透谷は明治二十五年(1892)に『徳川氏時代の平民的理想』を著して、「侠」と「粋」を江戸時代に存在した西欧の騎士道精神に対応する精神として取り上げた。新渡戸が武士を主眼にしたのに対して、透谷は平民を支えた理念を問題にした。それというのも、このころの透谷は、自由民権への強い熱意を持っていたから、一部階級の理想像ではなく、”平民”の理想であることが重要だったのである。
 新渡戸も、「侠」を無視していたわけではなく、その著書の中で触れているし、あるいは透谷のこの文章を知っていたのかもしれないが、透谷が侠の代表作家として取り上げている近松・馬琴を新渡戸も武士道の流れを汲むものとして上げている。ただ、説くべきは、あくまで武士の精神とされていた。
 どちらの場合も、騎士道精神との比較から日本にも、武士道あり、あるいは任侠・粋あり、という持って来かたをしているので、それぞれの本質が何かというところからは、ちょっと外れるところがありそうだ。しかし、新渡戸の解説はそのまま日本国内にも流布した。なおまずいことに、鍋島藩の武士の生き方を説いた書物、『葉隠』が武士道全体の書物としてすっかり有名になってしまった。鍋島藩士であった山本常朝が、藩の祐筆相手に口述した物がこの書物だったのだから、常識的に考えれば、この著作は鍋島藩の武家故実、あるいは精神手引き書なのである。常朝もその中で、上方の武士は違うと言うようなことを明言している。藩、つまり家中によって家風の違いが前提にあっての発言だったのである。それでこそ武士道だったのだが、近代になると、そこのところは忘れられてしまった。
この『葉隠』は軍国時代にもてはやされたが、戦後これを再び取り上げたのは三島由紀夫だった。「古典に現代を発見しょう」という宣伝文句の下、カッパブックスの「日本人の知恵」シリーズ、第二冊目に三島の『葉隠入門』が収録された。
 三島の『葉隠』は、今度は騎士道への対応ではない。シリーズの狙いにあわせて、現代に生きる知恵を与えてくれるという設定だ。これは、新渡戸が、倫理の基盤を武士道としたのに通じている。モラルの基盤に葉隠武士道を設定したのである。
 江戸時代に武士道ということばを使っている例もある。たとえば、『女敵討記念文筥』という鏡山を書き換えた小説では、岩藤から草履打ちされた尾上が、自害したことを、無実の罪で草履打ちをされたことを「女ながらも武士道を立ての自害はあっぱれ」と褒め上げている。これなどは、新渡戸や三島が認めない女の武士道であり、江戸時代、宮仕えする若い女性達に、圧倒的な人気のあった鏡山もの狂言の根幹に関わる意識だったろう。江戸時代には女性にも騎士道に相当する行動規範があったのだと言っても良いだろう。

これが『歴路』に投稿した本文です。枚数制限にあわせてありますのでちょっとしりきれとんぼかなと思います。新渡戸が透谷を読んでいたかどうか、誰か教えてくれるとうれしいです。
これとは別に、『江戸文学』という雑誌にコラムを書かされました。特集が「武士の文学」だったので、やはり武士道がらみで「野暮な屋敷の」という半端な題で書きました。「野暮なやしきの大小すてて」と始まる江戸小唄があるので、それを使いました。つまり、「粋」の側から言えば、武士道はやぼだったんでしょう。鍋島の野暮ときたら、それこそ、野暮の真髄みたいなものでしょうねぇ。『葉隠』と新渡戸の違いは、『葉隠』が鍋島の家の風を基調にしたのに対して、新渡戸は武士道を一般化した形で捉えなければならなかった点です。新渡戸には勝海舟も出てきます。海舟はどうやらやぼとは言えない武士のようです。
『女敵討記念文筥』は東大の霞亭文庫にありますので、影印でよければネットで読めます。この作品では、鏡山ものに良くある設定、自殺する尾上が町人の出身で、その下仕えのお初が武家の出身という形とは異なり、尾上に相当する道芝は畠山重忠の娘、お初に相当するお夏は出自不明になっています。
 鏡山ものといっても分かりにくいでしょうか。江戸時代に実際に起きた事件を芝居や小説にしたもので、忠臣蔵ものなどというのと同じです。事件は、大名に仕えている屋敷方の女中同士のいさかいで、老女が若い女中を草履で打ち、その女中は恥辱に耐えられず自害し、その女中に仕えていた下女が老女を討ち果たして敵討ちを全うしたという事件です。お局様のいじめと仕返しですね。『加々見山旧錦絵』という浄瑠璃になり芝居になり、江戸中の女性フアンを湧かせました。つい最近まで市川猿之助が、得意の出し物にしていました。
家風として存在した武士の身の処し方と、江戸時代の人々の間で、無意識に行動の規範となっていた精神的な枠組みと、無関係ではないでしょうが、一緒にしてしまうのは危険でしょう。今の武士道ブームに嘘っぽさを感じてしまうのはその辺から来ているかな。『江戸文学』にも書きましたが、直侍とか丹次郎とか、どうしょうもない武士が出てくる芝居・小説は山のようにあるし、その連中が結構人々に好かれていたということも、鍋島の武士道だけで割り切っては困るというのが、江戸俗文化派の見解です。

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